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2026.2.17
Culture
300年の歴史が紡がれた場所。住友グループの原点「別子銅山」とは
400年以上の歴史を持つ住友グループ。その歴史を語る上で欠かすことができないのが、愛媛県新居浜市にある「別子(べっし)銅山」です。
1691年の開坑以来、280年以上にわたって銅を産出したこの鉱山は、先人たちが生産方法や働き方、環境・社会課題に対して真摯に向き合い、現代の住友グループ企業へ受け継がれている「住友の事業精神」が宿った場所であり、住友発展の礎を築いた地とも言えます。
今回は、別子銅山を訪れる社内研修に参加したEnriching+編集部メンバーと、別子銅山を案内してくださった新居浜市在住の髙橋利光さんとともに、先人たちの暮らしの跡を追いかけます。
別子銅山とは?
別子銅山は、1691年の開坑から1973年の休山(事実上は閉山)まで280年以上にわたり、住友という一民間企業によって連綿と経営されてきた、世界でも珍しい鉱山です。
明治維新以降は海外の技術を積極的に導入し、総出鉱量は約3,000万トン、産銅量が約65万トンと、国内最大級の銅山として日本経済をけん引してきました。別子の鉱業からは、化学工業や重機械工業、林業、電力業などの事業が派生し、現在の新居浜市はもとより、住友グループ企業発展の礎となっています。つまり、別子銅山で培った技術と経験が、今日の住友グループを形作ったのです。
その一方で、急速な近代化は、森林の荒廃や鉱毒水の流出、煙害などの環境問題も発生させました。住友の先人たちは、これらの諸課題に対し、収銅所の開設や製錬所の移転と近代製錬技術の導入、植林事業の拡大など、根本的な解決策に取り組み続けてきました。
先人の苦労と努力の痕跡を追いかける
今回は、Enriching+編集部メンバーが、住友の歴史と事業精神を学ぶために社内の「別子銅山研修」に参加。研修では、新居浜市にある住友ゆかりの記念館3館を訪れ、知識を深めてから別子銅山への登山に挑戦しました。
ここからは、別子山中において先人たちがどのように暮らし、働いていたのか、その足跡をたどっていきます。
まずは、別子開坑の舞台となった最初の坑口「歓喜坑(歓喜間符)」をご案内します。歓喜坑は、先人たちが有望な露頭を発見し、試掘の結果、非常に優秀な鉱床であることが判明し歓喜したことから名付けられました。ここから住友の歴史が大きく動いたのだと思うと、思わず背筋が伸びます。
別子銅山稼行が始まった当初、銅鉱石の採掘はすべて手作業で行われていました。坑夫たちは、サザエの貝殻にクジラの油を入れ、灯芯に火を点じて使用する「螺灯(らとう)」の小さな灯りだけを頼りに、暗い坑道を進んでいったそうです。髙橋さんは「坑夫たちは当時、かかとがない特別なわらじを履いていました。周りがほとんど見えないので、つま先立ちで、少しずつ足元の安全を確かめていたのです。」と教えてくれました。
1880年に牛車道が開通する以前は、仲持(なかもち)と呼ばれる人たちが、急坂で険しい岩場の道を、荒銅や日用品、食糧など運んでいました。女性は約30キロ、男性は約45キロもの重さの物資を背負って歩いていたそうです。
標高1,294mの銅山越からの下山時は、200~300人の仲持が歩いていた道(泉屋道)を実際に歩いてみました。編集部員はリュックを背負っていただけでしたが、撮影をする余裕がないほど急勾配な下り道です。当時、命がけで物資搬送の仕事をされていた仲持たちの苦労がよく分かりました。
こうした厳しい環境の中、先人たちは別子山中で生活を営んでいましたが、決して苦しいことだけではなく、現地集落にある数々の神社で催される祭礼行事などを楽しんでいたようです。
旧別子銅山一帯の中でも最後に拓けた集落である小足谷には、別子銅山を訪れた賓客をもてなしていた接待館や採鉱課長宅跡があります。接待館跡や採鉱課長邸宅跡には、住友の井桁マークを模したとされる赤レンガ作りの荘厳な塀が残っていました。当時の採鉱課長は、別子銅山では支配人に次ぐ職位のひとつ。専用の井戸もあり、副支配人クラスの住居にふさわしい、立派な邸宅だったようです。
同じ小足谷集落には、1,000人を収容できる立派な劇場もありました。上方(現在の京都や大阪)から芸人を呼び、歌舞伎や芝居が上演されていました。「江戸・明治前期における採鉱や製錬の中心地が、1,300mの山に遮られた地であったため、劇場は、芸能や文化に親しむ時間が限られていた別子山中で生活する住民に、潤いと安らぎを与えていたようです。」と髙橋さん。住友の傭員と稼ぎ人及びその家族が生き生きと過ごせるよう、別子山中に娯楽施設を整えた住友の当時のリーダーたちの労務管理や福利厚生の先進性に、今なお学ぶべき点が多いと感じました。
愛媛県宇摩郡別子山村(現在の新居浜市別子山)は、別子銅山稼行による繁栄もあり、明治時代後期には約1.2万人もの人たちが住んでおり、別子山中にある小学校には300人程度の児童が通っていたそうです。これは、現在、人口約11.5万人の新居浜市にある公立小学校16校の中でも、中規模校に該当する児童数とのことです。
1870年に小足谷醸造所が竣工する以前は、行商人や仲持が標高1,300mの銅山峰の北方にある町村の繁華街からお酒を運んできていました。当時、別子銅山支配人であった広瀬宰平の意向により、標高1,000mの別子山中に酒造場を設置し、お酒が醸造されることになりました。髙橋さんは、「繁華街からお酒を運んでいた頃は、運搬の途中でお酒を呑み、減った分は加水してごまかすという不正もあったそうです。そうした経緯もあって、現地に酒造場をつくることになったのです。」と笑顔で話してくれました。最盛期には、ここで年間100キロリットルの酒が醸造されていたほか、後年には、生活に欠かすことができない味噌や醤油も作られていたそうです。
新居浜市の市街地や瀬戸内海が見渡せる銅山峰に到着。この日は雲ひとつない快晴で、新居浜市の街並みや瀬戸内海の島々がよく見渡せました。
かつては4,000人を超える人々が暮らしていた別子銅山の山中も、今は静かな自然の姿に戻りつつあります。厳しい環境の下、ここで暮らしていた先人たちの努力と苦労が積み重なり、住友グループ企業に勤める今の私たちの暮らしにつながっていることを実感し、改めて感謝の気持ちが湧いてくるとともに、先人たちに恥じない仕事をしないといけないと身の引き締まる思いがしました。
同じ研修に参加した住友商事社員からは、「住友商事で何十年も働いてきたが、初めて知ることがたくさんあり、大変有意義な時間だった。」「先人たちの苦労を肌で感じた。特に急な岩場の下り道は、足が滑ってしまうようなところも多く、重たいものを背負って下りていくのは命がけの作業だっただろうなと思った。」などの声が寄せられました。今回の別子銅山研修は、住友の歴史への理解をより一層深める、貴重な機会となりました。
今回の研修では、3つの記念館を訪れてから別子銅山の登山に臨みました。背景を知ることで、より一層、住友と別子銅山の歴史の重みを感じることができました。