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2026.3.11
Culture
今に根付く住友の事業精神。今私たちが「別子銅山」から学ぶこと
400年以上の歴史を持つ住友グループ。その歴史を語る上で欠かすことができないのが、愛媛県新居浜市にある「別子(べっし)銅山」です。
1691年の開坑以来、280年以上にわたって銅を産出したこの鉱山は、先人たちが生産方法や働き方、環境・社会課題に対して真摯に向き合い、現代の住友グループ企業へ受け継がれている「住友の事業精神」が宿った場所であり、住友発展の礎を築いた地とも言えます。
そこで今回は、住友商事の研修で別子銅山を案内してくださった新居浜市在住の髙橋利光さんにご協力いただき、別子銅山で育まれた住友グループの歴史と事業精神についてお話を伺います。
【本記事は全2回の後編です】
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新居浜市総務部市史編さん室
髙橋利光
新居浜市総務部市史編さん室所属(再任用職員)。元・新居浜市経済部運輸観光課長、新居浜市教育委員会事務局次長、新居浜市議会事務局長。銅山峰へは1993年の初登山以降、50回以上訪れている。2023年度より、住友商事の別子銅山研修でガイドを担当。主な著作物に『歓喜の鉱山―別子銅山と新居浜―』(1996年)、『銅山峰を仰いで』(2020年)がある。
住友歴代総理事が残した「住友の事業精神」とは
住友商事には、住友の歴史と事業精神を学ぶ「別子銅山研修」があります。この研修で、別子銅山を案内してくれたのが、32年間にわたり別子銅山に足を運び続けてきた髙橋利光さんです。髙橋さんへのインタビューを通して、別子銅山で培われた住友の事業精神が、現代の住友グループ企業や新居浜市の発展にどのように受け継がれているのかを探っていきます。
まず、髙橋さんが初めて別子銅山を訪れたときのことを教えてください。
髙橋 今から32年前の1993年、私が31歳のときに初めて銅山峰に登りました。当時は、新居浜市役所観光物産課に勤務しており、業務遂行上、別子銅山記念館長など有識者を幾度も訪ねて基本的な歴史を学んだ後に現地を訪れました。過去の栄華が消え去った静寂さに、深い感慨を覚えたことを今も記憶しています。当時は数々の産業遺構や生活遺構が確認できましたが、1973年の別子銅山休山から既に半世紀が過ぎた今では、自然回帰が急速に進み、遺構は土石や雑木の中に隠れるようになってきました。
ガイドとして、今も忘れられない光景があります。1994年、オープン直後の東平歴史資料館(※)を案内していた時、展示写真を見て「この写真の、この子どもが私です」と話しかけてきた元東平の住民の方がいらっしゃいました。展示写真を見ながら静かに往時を回想されていた姿は、今も強く印象に残っています。
※標高約750mの山中にある東平(とうなる:現在は新居浜市立川町)に整備された、別子銅山の歴史や東平地域にあった当時の建物の様子などを知ることができる資料館。東平には一時、別子銅山の採鉱本部が置かれ、最盛期には約5,000人が暮らしていた
〈進取の精神〉〈自利利他公私一如〉といった「住友の事業精神」は、別子銅山の事業を通してどのように培われてきたのでしょうか?
髙橋 近代の住友には「総理事」と呼ばれる7人のトップリーダーがいましたが、その中でも、別子銅山支配人も経験された初代から3代までの総理事は、それぞれ今につながる住友の事業精神を育んだのではないかと思います。
まず住友初代総理事・広瀬宰平(ひろせ さいへい)は、江戸から明治への大変革の時代、「別子銅山を売却しよう」という話もあった中、住友による銅山経営を守り抜き、経営を軌道に乗せました。そして、海外から鉱山技師を雇い入れ、別子銅山の近代化を強力に推進されました。変化を先取りしていく〈進取の精神〉は、現在の住友グループにも貫かれていると感じます。
住友2代総理事・伊庭貞剛(いば ていごう)は、銅山開発に伴い荒廃した別子の山々を元の自然に戻すため、森林再生に尽力されました。多い年は年間200万本もの植林を行い、別子全山で植えられた木は累計で数千万本に及ぶとされます。こうして先人たちは100年もの歳月をかけて荒廃した別子の山々を、緑の森へと再生させました。自分たちを利するだけでなく、社会を利するものでなければならないという〈自利利他公私一如〉を実践したと言えるでしょう。
そして、住友3代総理事・鈴木馬左也(すずき まさや)は、就任時に「自分は正義公道を踏んで、皆と国家百年の仕事をなす考えである」という言葉を残したように、〈企画の遠大性〉を体現した人物です。1899年に発生し、513名の死者を出した山津波災害で別子山中が壊滅状態に陥った際にも、陣頭指揮をとって復興を進めました。
更に、彼らが47年にわたって取り組み続けたのが、製錬所から発生する亜硫酸ガスによって深刻化した煙害問題です。この問題に対して、伊庭貞剛は、製錬所を四阪島へ移転する決断をし、その後のリーダーたちも研究と対策を積み重ね、1939年には煙害のもととなった亜硫酸ガスの排出ゼロへと導きました。一時的な対策ではなく、根本から解決するこの姿勢こそが、住友の事業精神を象徴しているのではないでしょうか。
先人たちの言葉や記録の中で、特に心に残っているものはありますか?
髙橋 住友2代総理事・伊庭貞剛が残した「事業の進歩発達に最も害するものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈(ばっこ)である」という言葉です。伊庭貞剛は、総理事就任後わずか4年、58歳の若さで後進に道を譲り引退されました。引退後は、復帰することなく、滋賀県大津石山の別荘(現・旧伊庭家住宅(住友活機園))にて余生を送られています。その信念を通した姿は、実に清々しいものです。
新居浜と住友の人々に、今なお受け継がれているもの
新居浜の方々にとって、住友グループはどのような存在なのでしょうか?
髙橋 私が子どもの頃、新居浜では住友グループ企業およびその関連企業に勤める市民が、約6割を占めていたと言われています。小学校でも住友の企業について教わりましたし、友人に「お父さん、お母さんのお勤め先は?」と聞けば、そのほとんどから住友金属鉱山、住友化学工業、住友林業、住友重機械工業といった、新居浜で生まれた住友グループの企業名が返ってきたものです。また、「住友さんがくしゃみをすると、市内の関連企業は風邪をひく」といわれるほど、新居浜は住友の企業城下町でもあります。
住友グループは企業の発展だけでなく、地域との共存共栄にも力を注いでこられました。例えば、1927年、別子銅山最高責任者に就任した鷲尾勘解治(わしお かげじ)は、新居浜築港や後に市内の一大商業圏となる昭和通りの整備など、住友資本によるハード面での整備に尽力されました。また、青年鉱夫に住友の社員としての精神教育を行う私塾「自彊舎(じきょうしゃ)」や別子銅山従業員の親睦団体「親友会」、相互扶助に取り組む組織「改善会」などを設立しています。鷲尾自身も社員と共に奉仕し、道路や公園の整備にも汗を流し、住友と地域、社員と地域住民との絆を深めていきました。
こうした取り組みがあったからこそ、「鉱山が閉山すれば鉱山都市は衰退していくのが宿命」と言われていた時代、新居浜市は鉱業以外の産業も発展し、社会資本の整備も進んでいたことから、時代の流れに飲み込まれることがなかったのです。銅山なき後の地域の後栄策にも取り組んだ、住友の決断力と実行力のたまものだと思います。
別子銅山の歴史から、現代のビジネスパーソンが学ぶべきことは何だと思いますか?
髙橋 煙害克服、植林による森の再生、地域との共存共栄、休山後も続いたまちづくり……別子銅山の約300年の歴史には、今でいう「持続可能な開発目標(SDGs)」に先駆けて取り組んできた先人たちの知恵と実行力があります。また、遠い将来を見据え、世代を超えて事業を開花させる〈企画の遠大性〉には、学ぶべきことが多いと感じます。そして、住友グループ企業に勤める皆さんには、別子銅山開坑から300年以上が経つ今なお、住友と新居浜との間に脈々と受け継がれてきたこの共存共栄という精神を、将来にわたって継承していただけたら、新居浜がふるさとである私も大変うれしく思います。